保坂のぶとの決意

四月一七日告示、二四日投票の世田谷区長選挙に挑むことにしました。長年にわたり支えていただいた元気印の会や支援者の皆様に取り急ぎの御報告をしたいと思います。 九六年から衆議院議員を三期、一一年つとめてきた経験を、人口八七万人の世田谷区の行政を預かる立場で生かしたいという決意で、わずかの期間ですが駆け抜けたいと思います。
昨年夏、参議院選挙で頂いた支援を議席に生かすことが出来ず、しばらくして、「世田谷区長選挙に立つように決断出来ないか」と何人かの方から求められてきました。当初、「これまでの経験を生かして国政の場に戻ること以外は考えることが出来ない」との理由で、区長候補と目されるのは光栄としながらも固辞してきました。

三月一一日大災害の衝撃

三月一一日午後、激しい揺れが東京を襲いました。私は児童養護施設出身の若者のインタビューをしていた最中でした。長い揺れは、想像も出来ない大地震を思わせました。私は、東北・宮城県の生まれです。その後、大津波が一瞬にして太平洋沿岸の街を飲み込んで、おびただしい数の生命を奪ったのは痛恨の極みです。
地震の晩、交通機関が止まったために「帰宅困難者」となって都心の出版社で一夜を過ごしていた私は、「福島原発の異変」のニュースを聞いて背筋が凍りました。〇七年参議院選挙の最中、中越沖地震の被害を受け緊急停止した柏崎刈羽原発の内部に、国会議員調査団で原子力情報資料室や原発に詳しい技術者の人たちと入り、原子力事故の怖さを肌身で感じていたからです。
それ以来、地震と原発事故の緊張と恐怖が東京を包みました。停電が始まり、交通機関が乱れ、すべてが停滞する中で、この災難に立ち向かっていたのは被災地の自治体であり、また被災を免れた自治体でした。官邸や与野党共に情報収集をして智恵を練っていましたが、この国の「縦割り行政組織」は平常時と変わらない硬直性を持ち続けていました。
私は、地震の直後から「被災地支援」について、田中良杉並区長と意見交換をしてきました。一昨年の衆議院選挙で声を枯らすほどの応援をいただき、また昨年夏の区長選挙では私も応援した仲です。杉並区と福島県南相馬市は「災害時の援助協定」を結んでいました。
南相馬市と言えば、「陸の孤島化」を危惧する桜井勝延南相馬市長の訴えがテレビで何度か放送された人口七万人の自治体です。
南相馬市は、原発事故の後で「避難地域(二〇キロ圏内)」と「屋内退避(二〇~三〇キロ圏内)」地域とされました。ところが、この三〇キロ圏内が「汚染地域」として扱われて、物資・燃料などがすべて入らなくなるという事態を迎えていました。
杉並区はただちに幹部職員と共に、トラックで緊急援助物資を送り、「市外に避難したい」という希望者がいるのをつかんでバスを南相馬市に送り、避難者を群馬県の宿泊施設に移送するプロジェクトに取組みました。このバスが三〇キロの壁を超えて市の中心部に入ることが出来るように、私も社民党を通して官邸や福島県に働きかけるように側面から応援しました。
そして、私自身も三月二六日に南相馬市に出向き、極限状態の中で市民の生命を預かり奮闘する桜井勝延市長とも話してきました。また、その日の夜には、原発事故で山形県米沢市に体育館につくられた避難所で、南相馬市から避難する小さな子どもを持つ家族連れの避難者の肉声を聞きました。原発事故の深刻化から、子どもたちを四月から米沢市の学校に通わせたいという親たちとも会い、中長期的な取組みの必要を感じました。
新しい街が人々を受入れ、そして暮らしと雇用を作り上げ、また教育や福祉の基盤を整えていくことは、日本全体の課題です。その最前線にいるのが自治体行政で、省庁間調整に明け暮れている国が立ち止まっている間に、素早く行動し、迷うことなく人々の生命を守る役割を果たし、危機の時代の突破口を開くのが自治体だと痛感しました。 

再びの立候補要請を受けて

それは、三月三一日の朝でした。「もうぎりぎりだけれど、もう一度考え直しくれないか」と世田谷区内の環境や都市再開発に取り組む住民グループに出馬要請を受けました。私自身、これまでとは違って、たいへんな責任の重圧感とともに、今だからこそ私の力で役割を果たすことが出来るかと自問自答を続けました。
長年、共に活動してきた社民党世田谷総支部とも相談をしました。
これだけ期間が短いにもかかわらず、先輩OBも含めて「今回、ぜひとも勝負すべきだ」という声が相次ぎました。八年続いた現職区長が引退して、八人(四月八日現在)が挑むという大乱戦になるが、可能性が十分にあるという判断になり、「やるべし」との要請を受けました。
三月一一日の地震と原発災害は、私たちの未来に大きな不安と影を落としています。そして、私自身も含めて、私たちの生き方や社会の慣習を大きく変えるように求めていると思います。政治の役割は、暗黒の中に灯を掲げ、困難な壁の向こう側に夢をつくりだすことです。
それが二五年間、子どもと教育問題をテーマに地域活動をしてきた世田谷で出来るのであれば、思い切った舵取りをしていきたい。国政が危機の前に停滞し、すぐに回答が生み出せない状況が続いていく中で、「新しい社会のあり方」を世田谷から提示していきたいと思うようになり、要請を受けることにしました。
二年前の総選挙に向けて、〇八年から東京八区(杉並区)で応援をいただいた皆さんに感謝すると共に、今回の急な戦いに御理解を得るために、世田谷区と杉並区が連携して「新しい時代」をひらく可能性に一歩を踏み出したいと思います。
応援団の市民と共に、社民党・生活者ネット・国民新党の支持を受けました。今回の立候補にあたっては社民党を離れて、無所属の立場でたたかいます。杉並区の田中区長にも応援をいただくことになりました。
危機の時代、国政で培った経験を自治体行政に生かして、次々と政策を実現して「国に変革を迫る」道を開きたいと思います。急な挑戦にフル回転で動き出しました。皆様への報告と、決意の一端を書かせていただきました。
(保坂のぶとの活動レポート 元気印通信No.84より)