保坂のぶと出馬決意表明

◆今、動いている現場は自治体
3月11日に受けたショック、そして、その後の政治を見たときに、懸命に動き、今日考えて2時間後に動き出せたのは、実は自治体だったとことを目のあたりにしました。
南相馬市長の「陸の孤島になってしまう」という声を受け、杉並の田中区長とバスを整えて迎えに行こうとなり、私が調整をしてそのプロジェクトを実行できました。私自身も南相馬市に出向き、市長に会い、国会議員の皆さんとも会って話をして、政府は全力を挙げてやっているけれども、じかに見て素早く解決策を講じ、動いている現場は自治体であると思いました。
とくに今回の原発事故は、世界中の文明のあり方について、「変われ」と強く言っていると思います。しかし残念ながら、日本の政治も経済も、まだまだ3月11日以前の思考に囚われています。だから世田谷区長選挙に挑戦して、まずは世田谷から大きく変える。世界と日本が求められていることを実現する仕事をすぐに開始したい。そう考えて、立候補を決意しました。

◆世田谷と私
85年に、不登校・いじめ問題を抱えている子どもたちや親御さんなどと、教育問題を中心にして世田谷・成城に事務所を開いたんですね。95年には、故牟田悌三さんと私が一緒になって世田谷区内の全学校にチラシを配布して、いじめという恐怖がどのようにあるのかを、学校を介さずに私どものところに集めました。用賀中学校に500人の父母の皆さんを中心に集まったことがきっかけになって、恒久的に子どもたちが声を出すことのできるチャイルドラインを世田谷区で実験的にやり、それが日本中にチャイルドラインが生まれるきっかけになりました。
また、衆議院議員になってからは経堂に事務所を構え、三軒茶屋で土曜日の1時に国政報告を、10年間、雨の日も風の日も、続けました。一昨年の衆議院選挙の前に、民主党の小宮山洋子衆院議員に協力する形で、杉並区に選挙区を移し、政権交代という大きな社会的なテーマを実現しようとしました。11万超の票を頂いたのですが議席獲得できず、昨年の参院選も次点となり、みなさんの支援をなかなか生かせない状態が続きました。

◆世田谷で実現したいこと
そんな中、世田谷区民の皆さんから世田谷区長選挙を考えてみないかということを問われていましたけれども、あくまで国政復帰を考えていました。でも、その雰囲気ががらりと変わったというのが3月11日以後の状況なのです。
世田谷に、原子力発電に変わる代替エネルギーを研究開発するフロンティア的拠点をつくり、企業や大学、技術者、そしてNPO・NGOなど、さまざまな力を結集したい。今、出すべき答えは津波に強い原発ではないと思っています。安心して、子どもたちに外で駆け回っていいよという環境を僕らは作らなければいけないんです。そのために、不要不急の公共事業に特化しやすい傾向からの転換を考えたい。原発避難民の皆さんについて、国は省庁間調整でなかなか回答を出さない。
私は杉並区と連携をして、もっと世田谷区を、被災者を大きく受け入れ、親を失った子どもたちにしっかりした環境を整え、今までとは違う施設を作りたい。人と人の顔が見えるつながりを作りたい。それが災害に強い街づくりになると信じています。高齢者・障害者福祉や介護、医療でもっと当事者の声が届く独自の制度を、国や都でなかなか出来ないのであれば、区のレベルでしっかりフォローしたい。世田谷区の場合は5つの支所があって、それなりに権限を持って、その中に世田谷区の中の地域分権みたいなものが図られてきたが、現在は中央集権化されています。ひとつひとつの地域にもっと、はっきりした住民参加の権限がある町を作っていきたいと思います。

◆期待に応えて、精一杯駆け抜けます
暗闇の中に光を灯すのが政治の役割だと思っています。絶望の壁の向こうに一筋の光の道をつくりたいのです。区民・市民的な力に溢れた世田谷を取り戻したい。
区民の皆さんの要請を受けて区長選に挑戦する意思を固めたところ、社民党、生活者ネットワーク、そして郵政民営化見直しの問題で連携してきた国民新党、無党派市民の皆さんも応援するぞと言ってくれています。その思いを受け、社民党を離れ、無所属のひとりの保坂のぶとということで、声を上げていく予定です。中心は市民です。市民と政党、さまざまな地域グループ、力をあわせて、激戦と言われている中で、一番で選んでいただく戦いを展開したいと思います。
(記録作成・まとめ 久山めぐみ)